葬式仏教について、本気で考えた方が良い時代
2023年02月15日
家族や関係者が亡くなったらお葬式をするのが常識となっているようですが、最近は少し考え方が変わってきたようです。
太古の昔から近代以前においては、仰々しい葬儀は、それこそ権力者が亡くなった時の葬儀においてのみでした。
それが、近代においては、平民と言ってもいいような者が亡くなっても大袈裟な葬儀を行うようになってきました。
葬儀自体が、イベントのようなものとなり、葬儀を社交的な扱いにし、経済界等の出会いの場になっていったというのが実情でしょう。
義理事等と言い、どれだけ高額な香典を渡したかがステイタスと思われるというナンセンスな考えも生まれたのではないでしょうか。
全くもって馬鹿馬鹿しい話です。
人の死は、それこそ身内が悲しむべき事であり、赤の他人がよってたかって訪れて、ご愁傷様という社交辞令を述べて、金を置いて行くという馬鹿げた風習になっている事にとても疑問を感じます。
最近においては、経済的な理由もあるのでしょうが、こういった疑問を感じる社会になってきており、直葬という葬式をせずに火葬だけをして埋葬するというものも増えてきているようです。
香典が飛び交い、坊主には一日で数十万から数百万の布施が入り、葬儀屋にも似たような収益が入るという馬鹿げたイベント・・・
やっと、皆々が気付き始めたようです。
確かに、政財界や社交界においては、こういった葬儀によるイベントが必要なのかもしれません。
しかし、単なる一般市民が同じような事をする必要があるのでしょうか?
香典をもらったから返さなければならない、それが義理というものだというのかもしれませんが、最初からもらわなければ良いだけの話です。
亡くなった人を埋葬するのに、家族だけでは困難だった時代においては、近隣の者を頼んで助け合っていたという時代があったのは確かです。
その場合、助け合っているのですから、香典や葬儀の手伝いをする事はありがたい事であったのも事実でしょう。
それを仰々しい葬儀にしていったのは間違いだと思います。
葬儀は多くが仏式であり、その他は少数派です。
仏式において、仏教の開祖である釈迦は葬式をする為のお経を唱えたのではありません。
釈迦はこの世とはなんぞやという疑問から、この世の真理をつかみ目覚めた人という事で仏陀と呼ばれたのです。
決して葬式を取り仕切る者を弟子にしたわけではありません。
ある住職に、その宗派の根源たる理屈を聞いた時があります。
そうしたら何と答えたかといいますと、一般人がそんな深い事を考える必要はないとのたまったのです。
何を言っているのか分からないサンスクリット語のお経をありがたやありがたやと聞いて、葬式を行い布施をすれば良いだけのこととでも言いたかったのでしょう。
もちろんこの坊主には嫁も子供も居ますし、肉も食えば酒も飲んでいる生臭坊主です。
それが証拠に正座がキツく見えるような肥満体でもあり、食欲さえ抑制できないのが見え見えです。
さらには、坊主の奥さんからの浮気調査を受けた時には、同じ宗派の坊主同士で風俗に遊びに行く事もあると聞きました。
坊主丸儲けとはよく言ったもので、最近はそんな現状を知ったか知らずか、坊主になぞ金を払う気にもならなくなってきたのでしょう。
坊主を呼ばない葬式、直葬とよばれる形態はこれからどんどん増えていく事でしょう。
よく考えたら当たり前の流れです・・・